2014年08月28日(木)
文法はスピーキングの敵か?
この前、インターネットラジオで、
「グローバル人材」を育成するにあたり、大学入試が見直されている、
という日本のニュースを聞いた。
日本の大学入試の英語試験では、スピーキング試験がほとんど行われていない。
確かに、短時間・公平・大量に行われる大学入試に、スピーキングを導入するのは、かなりの難題だろう。
しかしそれを避けて、採点の楽な筆記試験のみにしてしまうと、
どうしても学校での英語授業は、読み書き重視になってしまう。
でも読み書きができても、肝心の英語が話せないと将来グローバル人材は育たない。
では大学入試にスピーキングを導入するにはどうすればいいのか。
ということで、番組の中で、
大量に効率よくスピーキング能力を査定する方法についての取り組みが、いろいろ紹介されていた。
なるほどね~、と感心しながら聞いていた私だったが……..
この番組のまとめのほうで、実際の授業の音声が流れた。
「いいですか!不定詞には、3つの用法があってですね!」 と懸命に説明する女性教師の声。
そしてマイクは再び、ラジオ局に戻って、
「このような文法中心の授業が続いてる限り、なかなかスピーキングテストへの移行は難しいですね」
とアナウンサーが締めくくろうとしたとき、
なるほどね~、のうなづきは止まった。
スピーキングの大切さは切実に感じるいっぽう、文法を軽視する風潮については疑問を感じる。
日本人が英語をしゃべれないのは、文法ばっかりやってるからだ。
というステレオタイプの議論はよく耳にするが、
では、文法を勉強しなければ、英語を話せるようになるのだろうか。
とにかく話せ、というのは、車の運転を習ってる人に、
交通ルールはいいからとにかくアクセルを踏め、といきなり車道に出すのと一緒ではないか。
とか言いつつ、私もどちらかというと、日本では文法は避けてきた。
というか、マニュアルとか読むのが嫌いで、まずは使ってみるタイプ。(だからよく物を壊す!)
そんな自分が海外で英語を教えることになって、
しかも「基礎英文法」をまかされてしまい、もう避けては通れなくなってしまった。
今思えば、これがラッキーだったのだが。
「英語を話せること」 と 「英語を教えること」 はまったくの別モノ。
やっぱり文法を極めるしかないのか…….
日本でも避けてきた英文法に、海外で正面から向き合うことになるとは。
まずは片っ端から文法書を読んだ。
なるほど、英語は支障なく話せてても、微妙なニュアンスの違いとか、
暗記して覚えてたフレーズがなぜこうなるのか、クリアになって面白かった。
なんで学生時代に、文法をもっともっと勉強しなかったんだろう。
誰もが思うように、私も最初はそう思った。
いや、違うな。 多分、文法は勉強した。
これでも結構マジメな学生だったし、語学は得意なほうだった。
でも、文法を教えてもらったときに、そのつど、それを声に出す練習をやらなかった。
リーディングで教科書を音読する授業はあったけど、
さらに応用して、その文法を使って会話する練習が足りなかったのだ。
英語で話せる喜び、それを教えてもらえず、文法だけで終わると、つまらない。
スポーツのルールだけ必死で覚えて、試合には出られないようなもの。
そして文法が嫌いなる。やがて英語も嫌いになる。
英語嫌いになったのは、文法のせいだとインプットされる。
英語をペラペラに話してる人は、ほら、きっと文法なんて考えちゃいないよ。
クチから自然に出てきてる感じだもん。 とうらやましがる。
でも、実際のところ、文法がないと会話は作れない。
逆に、文法さえできれば、会話はいくらでも作れる。
会話ができないのは、文法力がまだまだ足りていない証拠だ。
いくら流暢に話せていても、文法に自信がないと、
いざというときに応用が利かないから、微妙なニュアンスが伝えられない、
という人は多い。
たとえば、初めて運転する道でも、青信号が「GO」だと知っていたら、
何も恐れずアクセルが踏めるし、赤信号で止まる。
どの土地にいっても共通のルールは変わらない。
文法ってそんなものだ。
違うのは、運転の場合は路上に出るまでに運転上のルールをひととおり習っておく必要があるけど、
英語は、今日習ったルールをすぐに使える。
文法をすべて頭にいれるまで待たなくてもいい。
いや、逆に待ってはいけない。 単純な文法を使って、単純な会話を話せる。
それを積み重ねながら、土台を作っていく。
これってすごく重要と思う。
文法を習って覚える時間と同じく、いや、それ以上に、覚えたルールを言葉にする時間が必要だ。
スピーキングに力を入れる、大賛成。
でも、簡単な会話ならまだしも、本気で話したいなら、文法は必須だ。
回り道なようでも、結局それが英語をマスターする近道。
文法とスピーキングを切り離してはいけない。