マリコラム

2012年02月10日(金)

日本人の「籍」意識

 
「籍を入れました」=結婚した。「籍を抜きました」=離婚した。 私たちは生まれたときから、「籍」というネットワークに囲まれて生きている。 誕生とともに「戸籍」に入り、学校に入ると「学籍」に記入され、死亡すると「鬼籍」に入る。 所属する会社やチームを移ると「移籍」したことになり、戻ってくると「復籍」。 政治の世界でも「党籍」から「除籍」されると大騒ぎになる。 日本人の初対面の会話では、相手の「在籍先」を把握することが、まず最初の作業となる。

 

つまり、私たちの日常感覚の中には、すべての人々を「籍」という型にハメ込んではじめて安心するという傾向がある。 だから籍のない人に対しては一種の脅威を持ち、「無国籍者」だと知ると態度が硬くなったりきびしくなったりする。

「入籍」はおめでたい出来事で、いっしょに暮らしてても「籍」を入れないカップルにたいしては、世間の目は厳しい。 税金をはじめ、日本社会のしくみも「籍」を入れたほうが得するようになっている。

それどころか「戸籍謄本」を提出しないと引越しも就職もできない。 「戸籍」の特徴は、家族単位であるところで、それによって自分が長男か、次女か、親は再婚なのか、片親なのか、離婚してるのか、すべてがわかるしくみになっている。 そんなことが就職や引越しにどう関係あるというのだろう。

 

ところが、日本のような形での戸籍制度がある国は、世界にはほとんどない。 もと日本の植民地だった韓国や台湾には似たようなものがある。しかし、それ以外で地球上で戸籍をもとにして国家が成り立っている社会はとても珍しい。

私たち日本人が、世界に向かって心を開こうとするとき、常に障害になるのはこの我々独特の「籍意識」だ。 しかもこの傾向は無意識のなかに組み込まれているので余計にやっかいである。

 

この「籍意識」を「国籍」で考えてみると、この障害の本質がいちばんはっきり照らし出されるようだ。 ひとつには、籍の感覚は、自分の目の前に現れてくる人たちを、さまざまな可能性をもつ個人として見る力を弱める。 所属によって人を判断するという不自由な傾向が、私たちの「人を見る」視力を衰えさせるのだ。

 

例えば、ヨーロッパの国籍の人と向き合うときと、アジアの国籍の人と見合うときと、違った先入観を持っていることはないだろうか。 もしあるとすれば、そのとき、心の奥底にうごめく籍の意識はどうなっているだろうか。

私たち自身が個人として国際化を実現しよいうとするさい、この籍感覚が自分自身の飛翔を妨げている深刻な問題になってくることを覚えておこう。

この籍意識をどう取り除いていくのか、と、「国際化」の核心に迫っていくことは、かなり近い気がする。

 

下からマリコラム解説:ちょっと硬い内容ですが、日本の国際化を考えたとき、避けて通れないテーマです。 上記のようにオーストラリアにも戸籍というものはありません。もともと戸籍というのは、日本が戦時に、一家に何人くらい徴兵できる人員がいるかを国が把握するために作られた、国にとって便利なシステムといいます。逆に戸籍がないオーストラリアでは、籍を入れたり抜いたりで結婚、離婚できません。つまり紙切れ1枚じゃだめです。ちゃんと結婚式を挙げないといけないし、離婚は1年間の別居がないと申請できないので、最低1年かかります。1年離れて頭を冷やしても、まだ別れたいと思うなら、それは本気だということなんですね。 

 


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投稿日時:2012年02月10日(金)6:54 AM

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